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ここ数年、青少年の覚醒剤乱用が急増している。欧米諸国に比べて、あるいは発展途上国と比較しても、日本はこれまで例外的に青少年の薬物乱用の問題から免れてきたと言っていい。しかし一方で、戦後軍隊から流れた覚醒剤(ヒロポン)の蔓延は、世界的に見てももっとも多くの覚醒剤依存症者を生み出した歴史を持っている。最近の薬物乱用の増加は、一過性の現象と考えることが出来るのだろうか。あるいは、遠くない将来日本もまた青少年の薬物乱用という大きな問題を抱えることになるのだろうか。ここでは、現在の青少年の覚醒剤乱用増加の背景を整理し、あわせて今後の予想と対策についても若干言及したい。
最近の青少年の覚醒剤乱用増加の背景
「何故若者が覚醒剤を乱用するのか」という当たり前の問いの代わりに、「これまで日本で若者の覚醒剤乱用が少なかったのは何故か」という問いを立ててみる。その上で、それぞれの条件が現在どのように変化しているかを考えてみたい。
これまで日本で青少年の覚醒剤乱用があまり問題にならなかった理由を考えてみると、まずアクセシビリティー(accessibility=近づきやすさ)の低さがある。第二時大戦中兵士の士気高揚のために使用された覚醒剤が戦後市販されるようになり、日本は世界史的にも最悪の覚醒剤常用者を生み出したが、その数は昭和26年の覚醒剤取締法施行後急激に減少する。以降、覚醒剤の乱用は暴力団を中心とした闇の世界だけの現象となり、普通に日常生活を営むものにとって、覚醒剤へのアクセシビリティーは非常に低くなった。そこには「使うか使わないか」という問いは最初からなかったのだと言っていい。つまり、日本人は覚醒剤を乱用しなくなったのではなく、乱用しようにも覚醒剤が身近になくなってしまったと見ることもできるわけだ。
次に、覚醒剤の持つイメージがある。一般人の持つ覚醒剤のイメージは、怖くてやばい薬であり、注射という摂取方法もいかにも危険な感じである。それから、シャブやポンという呼称もいかにも古めかしくダサイ。同じ違法薬物でもLSDやマリファナが持っていた反体制的でサイケデリックな、あるいは自由なイメージとは対照的である。
三つ目は、享楽的なものに対する否定的な倫理感がある。近代日本は、経済的には加工貿易で成り立ってきた国であり、そのために製造業が価値観を左右してきた。ものを作る立場に立てば、出来た物こそが価値であり、製造工程は出来上がった物によって遡及的に価値を持つ。すなわち、現在は未来によって価値を定められるという意味で、「道具的」価値を持っている。この「道具的」価値では、今が良くても未来が悪ければ、現在は否定されることになる。すなわち、享楽的なものは、この価値観によって否定されてしまうことになる。そして、覚醒剤はいわば享楽的なものの代表であった。
四つ目は、青少年の反社会的行動の監視装置としての学校の役割である。近代の学校システムは、表立ってはいないがいくつかの社会装置としての機能を持っている。その一つが、青少年の反社会的行動の抑止機能である。日本が世界に冠たる高就学率を誇る公教育制度を持っていることは、今更言うまでもないが、このことは見方を変えれば大多数の青少年は一定時間学校内に隔離されており、その間は高密度の監視の眼差しにさらされているということである。
さて、これらの覚醒剤乱用の増加を抑制していた条件が、現在どのように変わってきているかを検討してみる。
まず、アクセシビリティーは、覚醒剤の流通経路の変化と携帯電話やポケベルといった通信手段の普及で格段に高くなっていることが知られている。これまで、覚醒剤が存在するような文化圏と普通に日常生活を送っている、いわば堅気(かたぎ)の人が住む文化圏は相互に接点を持っていなかった。ところが高度情報化社会は、現実の接点ではなく電気的なネットワークの中に接点を作り出すことで、文化間の垣根を取り払ってしまった。携帯電話やポケベルの普及、パソコン通信、インターネットは、これまで意図的にあるいは非意図的に分節されてきた文化圏の間をほとんど抵抗なく越えることを可能にしたわけだ。
たとえば、大人の文化圏にのみ許されていたポルノ情報に青少年がアクセスしようと思えば、怪しげな本屋でそこのオヤジに見とがめられるという抵抗を越えなければならなかった。ところが、インターネットを使えば、こちらの匿名性は確保されたままに何の抵抗も越えずにその様な情報にアクセスすることができてしまう。テレクラという新しいコミュニケーション形態は、電話の向こうに日常の自分とは別の大胆な商売女をすら現出させる効果を持つ。そして彼らは再び何喰わぬ顔で、もとの安全な世界に戻ってくることができるのだ。これらの情報ツールによって得られた匿名性は、人が隠していた欲望や願望を引き出してしまう効果があるらしい。観光客としてならば、ちょっと危ない世界を覗いてみたいという願望がそのまま手に入ってしまうわけだ。
子どもたちが垣根を乗り越えることに抵抗がなくなったということは、それに伴う子どもたちの変化をも非常に見えにくくしてしまった。これまで、子どもが覚醒剤を乱用するようになるまで、親や教師が全く気づかないということは、普通あり得ないことであった。覚醒剤にアクセスするまでに、子どもはいろいろな垣根を乗り越えているから、その様子の変化は眼に見えて明らかだったわけだ。ところが、アクセシビリティーの増大によって、子どもたちは一方では今までの普通の子どもの様子を親や教師には見せながら、もう一方の足を闇の文化の方につっこむということができる。つまり、「親バレ」せずに闇の世界へアクセスすることが出来てしまうのだ。
イメージの変化については、「アブリ」という摂取方法の流行と呼称の変化が上げられる。最近、アルミ箔などに乗せた覚醒剤を気化させて鼻から吸引する「アブリ」と呼ばれる摂取方法が若者の間で拡がっている。覚醒剤=注射というイメージが非常に強いだけに、注射でないということで覚醒剤だと知らないうちに乱用しているというケースもある。また、注射という方法がいかにも危険なイメージがあるのに対して、「アブリ」という方法はタバコの吸引と比較しても薬物を人体に取り入れているという実感がわきにくいのではあるまいか。
「アブリ」という摂取方法と同時期に、呼称が変化したのも見逃せない。覚醒剤は、若者の間では「エス」「スピード」という呼称が一般的になっている。心身の種々の機能をスピードアップすることに由来すると言われる、このいかにもしゃれた名前は、感性優位の若者にとって、仲間に一歩先んじているという優越感をくすぐる効果がある。「シャブを打つ」ことはダサくても、「エスを決める」ことはかっこいいことなのだ。
覚醒剤を乱用することがなぜ否定されるかということを、個人の問題として考えた場合、「今は良くても、将来困る」ということにつきる。覚醒剤乱用防止教育も、基本的にはこの価値観に沿って行われている。ところが、この現在を将来のための価値ととらえる「道具的」な価値感は、製造を中心とした産業社会までのものである。一方、高度消費社会は、子どもたちの価値観を、現在をまさに今消費するものととらえる「消費的」な価値観へと大きくシフトさせた。そして、将来や社会に対して希望を失った中等教育課程にある若者にとって、「将来困る」という言葉は急速に説得力を失いつつあると言える。
覚醒剤乱用の問題に限らず、1980年代から続いている少年非行の特徴のひとつは、これまでのように有徴性を帯びていない少年による非行の増加である。ことの善し悪しは別にして、これまでの学校で行われていた非行防止対策は、すでにその様な兆候のある生徒に対して重点的に行われていたことは否めない。服装の乱れや軽微な反則行為によって、「問題」の生徒が抽出され、多くの場合はその生徒に対して特定の教師が生徒指導と称する監視と管理を行ってきた。ところが、最近のようにいわば「普通」の生徒が、なんの前触れもなく反社会的行動を起こすことになれば、監視の眼は全ての生徒に注がれねばならなくなる。一方では、学校の閉塞性が問題視され、保護者は生徒個々の個別性に対する配慮を求める。あまつさえ、学校や教師の権威は低下の一途をたどっている。このような二律背反の社会的要請の中で、現在の学校は、青少年の反社会的行動の抑止装置としての役割を持ちにくくなっている。
このように見てみると、これまで日本が青少年の覚醒剤乱用の流行から免れていた理由のことごとくが、きわめて怪しくなってきていると考えざるを得ないということになる。
覚醒剤問題の三相
そこで、上述の如き時代の変化をふまえて、青少年の覚醒剤乱用問題を捉える新しい視点が必要となる。なぜなら、覚醒剤乱用者の増加は、これまでのような意味での覚醒剤乱用者がそのまま数だけ増加するということを意味するのではないからだ。乱用者の増加によって、ダブルスタンダードの表面化が起こる。法的に規定された事項は、法によるスタンダードと日常的な倫理観によるスタンダードの二重のスタンダードを持つ。この二つは近接している場合も解離している場合もあるが、それらが解離している場合に限り我々はそれをダブルスタンダードと認識する。例えば、未成年の飲酒や道交法のいくつかは表面化したダブルスタンダードである。覚醒剤の乱用についても、ダブルスタンダードの表面化は起こりうる。
これまでの覚醒剤乱用者に関するイメージは、均質であった。それは、覚醒剤乱用者と非乱用者が二項対立的にとらえられたからである。ところが、覚醒剤へのアクセシビリティーが低くなり、ダブルスタンダードが表面化した社会では、常習的に覚醒剤を乱用する若者とまったくしないものの間に広くグレイゾーンが出現する。そうなると、この二項対立的な見方を前提にした、闇雲に絶対ダメという一本調子の対応では、その有効性は疑わしい。
すなわち、現在の覚醒剤問題は下記の如き三つの相について、別様の捉え方と対策が必要だと考えるべきであろう。三つの相とは、機会乱用−短期卒業可能性の問題、長期乱用=嗜癖の問題(紙幅の関係で詳細は省く:本誌狩山論文を参照)、蔓延する嗜癖気分である。
機会乱用−短期卒業可能性とは、一過性に覚醒剤を使用しても常習にはいたらず、覚醒剤をいわば「卒業」する青少年の問題である。有機溶剤の乱用は、中学年代で多く見られるものの、その中の大部分は中学卒業と同じ時期に有機溶剤の乱用からも「卒業」することが知られている。万引きやバイク盗などの反社会的行動についても、「卒業」と呼ぶにふさわしい現象が起こることが多い。このような、短期卒業可能な子どもの場合、それを反社会的な行動としてのみ捉えペナルティーを課すという方法では、逆にラベリングによって「卒業」不能な方向へ追い込んでしまうという危険がある。短期卒業可能な子どもに対しては、旧来の覚醒剤対策とは別様の対策が必要となるだろう。
それは、覚醒剤に関する正しくかつ新しい情報を提供し、無知による覚醒剤使用を減らすことと「卒業」までの期間を短縮するための対策を講じることである。そのためには、青少年の価値観や行動規範に応じた形の予防教育が必要となる。マルチメディア時代を生きる若者に、教壇から一方的に話すような情報伝達では、その効果は疑わしい。たとえばアメリカなどで広く行われているような、実際に誘われた場合の断り方についての社会的スキルを高めるような訓練が、おそらく日本でも必要になるだろう。また、覚醒剤を使用してしまった若者が戻ることの出来るようなルートをいくつも用意しておく必要がある。
覚醒剤のみならず非行一般について、日本はアクセシビリティーを低くすることでそれを抑制しようとする傾向が強い。高等学校におけるバイクの三ナイ運動やアルバイトの禁止などは、危ないところに近づかせないこと(アクセシビリティーを低くする)で非行の芽を摘むという考えである。欧米諸国の後期中等教育と比較して、生徒を「大きな子ども」扱いにしていると指摘される所以である。このような基本方針が、学校を含めて社会的権威という基盤が怪しくなった現在でも通用するのかどうか、充分に検討すべき時期に来ているのではなかろうか。
さらに、覚醒剤を乱用する若者の背後に、嗜癖気分とでも呼ぶべき傾向が蔓延していることも視野に入れておく必要がある。嗜癖行動には大きく分けて薬物やアルコールなどの物質嗜癖と、ギャンブルや仕事、ショッピングなどプロセスの嗜癖がある。嗜癖行動をその様に広く考えれば、摂食障害、TVゲーム、パソコン通信からイジメまで、嗜癖性の強い行動が若者の間に拡がっているのがわかる。また、最近アダルト・チルドレン(AC)という概念が流行しているが、この概念が自分の心の有り様を言い当てているという若者は少なくない。そして、このACは嗜癖準備状態のひとつと考えられている。
超越的価値が失墜し、すべての価値が差異の中に解消してしまったかのような感のある現代の日本で、中学・高校年代の若者の多くがぼんやりとした虚無感を感じている。制度化が極限に達した社会では、人生はあたかもコンピュータによるシミュレイションのごとく進むような錯覚を生む。しかもその先に心豊かな社会が開けているなど、もう誰も信じていないだろう。そんなところに神を名乗るペテン師が現れたらどうなるか。覚醒する薬草があるよと誘う者が現れたら。
おわりに
覚醒剤に限らず嗜癖とは、不条理を越えようとする営みの失調形態である。ある人は陶酔のうちに、ある人は神の行う奇跡の中に、現実世界が突きつける不条理を越える答えを探す。不条理は、意味を求める人間と意味を超越して常にすでに存在する環界との狭間に生じる。人間は生まれながらにして嗜癖するべく運命を負っているといっても良いかもしれない。だから、嗜癖は難問なのである。そして、嗜癖の治療が、権力関係の中からは成立しにくいという事情は、青少年の嗜癖問題を考える際に重い足かせとなる。今拡がりつつある青少年の覚醒剤乱用問題は、これまでに経験したこともないような途方もない難問を我々に突きつけているのかもしれない。
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