薬物依存についての情報  


親と教師のための薬物依存の情報

第2部

道具的価値から消費的価値へのシフト

不良と呼ばれていた属性の不鮮明化

世間という準拠枠の脆弱化


薬物のページについて HOME あなた自身のためのQ&A
第1部 第2部 第3部 第4部

5.道具的価値から消費的価値へのシフト


 若者の覚醒剤乱用の拡がりを理解するためには、現代の若者の姿をもう少し広い視野で眺める必要があります。最初に取り上げるのは、価値観の変化です。
 我々はものの価値をどのようなところに見いだしているでしょうか。たとえば、靴というものを考えてみます。靴の価値は、たとえば衝撃や寒さから足を保護するところにあります。その様な価値を道具的価値と呼びます。そのものの道具としての価値という意味です。しかし、現代の日本のようなもののあふれている社会では、道具的価値だけが唯一の価値ではありません。靴にしても、例えばお洒落であるとか流行のものであるということが重要になってきます。これが、消費的価値です。普通に考えれば、道具的価値は消費的価値に優先するはずですが、現代の日本のような高度消費社会ではこれが逆転することがあります。例えば、ビンテージファッションが若者の間で流行していますが、かっこいいとかお洒落とか、あるいは数少ないということ自体が値段をつり上げて、例えばぼろぼろの道具としての機能はほとんどないような商品が高価で売り買いされるということが起こっています。このような自体は、むろん以前からなかったわけではありませんが、以前はスノッブと呼ばれる例外的な趣味人だけの傾向であったものが、非常に拡大しているということです。
 さて、このような道具的価値から消費的価値へのシフトは「現在の価値」についても当てはまります。つまり、現在を道具としての価値でとらえる価値観から、現在を消費するものととらえる価値観へのシフトです。生産者の価値観から消費者の価値観へのシフトといっても良いかもしれません。現在を道具としてとらえるということは、現在が将来の役に立つように考えるということです。今は苦労しても、先々良いことがあることを期待するというのが「現在の道具的価値」です。それに対して、消費的価値の観点からとらえる現在は、今この場が価値を持たなければなりません。消費するものとして、現在はあり、それは将来のための道具である必要はないわけです。言い換えれば、享楽的ということもできるかもしれません。
 このような価値観のシフトは、若者の行動原理を大きく変えてしまいました。それは、若者を規制する社会が作り出した理屈は、そのほとんどが「現在の道具的価値」観の上に成り立っているからです。例えば、学齢期の若者に勤勉であることを強いるのは、将来のことを考えてであって、今の勉強を楽しみなさいということではありませんでした。将来良いことがあるから、今は我慢して勉強しなさいといって子どもに勉強をさせてきたわけです。そこで、子どもがこの現在の道具的価値という原理を承認しなくなったらどうでしょう。将来なんかどうでもいいや、今が良ければいいという子どもに、おもしろくない勉強をさせるのは至難の業です。
 考えてみれば、覚醒剤の乱用に対する警告も、この「現在の道具的価値」の原理に乗っています。覚醒剤防止の論理は、覚醒剤を使っていると、将来精神障害が起こったり廃人のようになってしまうということです。この論理は、使っている現在のことについて触れていません。逆に、暗黙の内に今は良いけれどということを示しているように読めます。そうすると、現在の道具的価値に重きを置かない人にとっては、ほとんど説得力がないということになってしまいます。
 「どうしてエスをやっちゃいけないんだよ」という若者の言葉に、「将来困ることになる」という理屈が通用しにくくなっているということは、わかっておく必要があるでしょう。

6.不良と呼ばれていた属性の不鮮明化


 マスコミでは、若者の非行の増加を連日のように伝えていますが、実際のところは統計上非行が増えているわけではありません。ただ、第3次の非行ピークといわれる1980年台から最近まで続いている傾向は、軽微な非行の増加と非行にかかわる子供のすそ野が広がっているということです。これは、学校現場ではいわゆる不良が見えにくくなったと感じられています。
 つまり、従来ならば不良と呼ばれる一部の生徒がおり、その生徒は外観から校内・郊外での行動パターンまで一貫して不良だったということです。教師の側から見れば、その一部の生徒にだけ目を付けていれば、生徒の非行管理は可能だったというわけです。ところが最近では、警察から生徒が補導されたという連絡を受けて行ってみると、全く普通の生徒たちだということがしばしばあります。保護者も全くわが子の様子の変化に気づいていないという有様です。
 これは、本当は歓迎べきことなのかもしれません。なぜならこれまで、いくつかの反社会的行動から一度不良というレッテルを張られると、何かあればどうせあいつに決まっているというように言われ、どうせそう思われているならとよけいに悪ぶるという悪循環に落ち込んでしまった「不良」の子どもは多かったからです。マートンの自己成就予言という言葉があります。あることを予言すると、物事が予言したように進んでしまうということですが、人間に関してはこの自己成就予言という部分はかなり大きく作用するのではないかと思います。
 不良と呼ばれていた子どもだけでなく、その様に呼ばれる属性(例えば、変形の制服を着ていたり茶髪であったり、あるいは家庭環境が問題だと思われたりといったような)を持たない子どもたちが反社会的行為をするということになると、管理する側の立場からいえば、「不良」をわざわざ抽出する意味があまりなくなってしまいます。そして、学校で反社会的な行動を管理しようと思えば、今度はすべての子どもに対して管理的な眼差しを向けなければならなくなってしまうわけです。これは、子どもにとってはもちろん教師にとっても非常に不幸なことです。一方では「心の教育」などということが声高に叫ばれているにもかかわらず、同時に反社会的行為の管理の眼差しをも全ての生徒に向けるということは非常に困難であろうと思われます。(この困難を解消するためには、旧来の学校教育における眼差しを止揚する必要があると思いますが、ここではこの問題には深く立ち入りません)
 さて、このような事情は覚醒剤の乱用という反社会的行為においても例外ではありません。覚醒剤に手を出しそうな子どもという管理しやすい徴がなくなってしまったということです。
 この問題をもう少し別の観点から考えてみましょう。非行を説明する社会学の仮説としてハーシィーの社会的ボンド理論という有名な理論があります。ボンドというのは、結びつきということです。大ざっぱにいうと、ハーシィーは社会的な逸脱行動を社会との結びつきの強さの強弱で説明します。つまり、社会との結びつきが強い人は逸脱行動に走らず、結びつきの弱い人は逸脱行動=非行に走りやすいというわけです。そして、この社会的な結びつきを構成するものとして、ハーシィーは4つの要素を上げています。すなわち社会に対する愛着(attachment)、同調(comittment)、関わり(involvement)、信頼(belief)です。このような眼で今の子どもを見れば、たしかにこれらのすべての要素が弱くなっているように感じます。ここで誤解のないように、蛇足ながらあえて強調しておきたいのは、これらの要素は子どもたちがアプリオリに持っているものではなく、成長しながら実際に経験する世界の中で培われるものだということです。つまり、子どもを取り巻く現代社会は子どもたちにこのような体験を提供できていないということです。

7.世間という準拠枠の脆弱化


 我々が自らの行動を省みるときによって立つものは何か(というと、あまりにも大上段に振りかぶった物言いになってしまいますが)。本当のところ自らを律する基準は何か、と考えると。その一つに、世間というものがありました。「世間様に申し訳がない」という言い方を今でも、する人がいます。この世間というのは、よく考えてみるとなんだか実体がわからないものです。どこまでの範囲を指すのかすら曖昧です。おまけにこの世間というのは、なかなかいい加減ではっきりと基準を持っているわけではありません。
 世間の基準というのは、誰もそれに対して明確な責任をとらないにもかかわらず、何となく決まっているのです。個人や市民がいて、その意見の総和が世間ではないのです。誰か長老がいて、その人が判断しているわけでもありません。だから、誰も世間を相手に戦うことは出来ません。戦おうとすると世間は雲散霧消してしまいます。そのかわりに、後ろから指をさすのです。こんないい加減なものがどうして基準になるのかと思いますが、世間というものが存在すると思いこんでしまうと、この呪縛から逃れるのは並大抵のことではありません。
 さて、このちょっとやっかいな世間というものは、一方では社会の安全弁としても働いていたと言えます。世間という準拠枠の存在は、過剰や突出に対してそれを牽制するといった、いわば負のフィードバックの働きをしていました。そのために、社会は飛び抜けた行動に対して暗黙の圧力をかけるようになっていたわけです。ですから、人は何か行動を起こそうとするときは、周囲の世間を見渡し、世間では普通どうしているかということを観察してそれから飛び抜けないようにしていました。今でも、冠婚葬祭の時のお祝いの額などは、多すぎても少なすぎてもおかしいものだと多くの人が思っています。世間というのは、やっかいではありますが、何か曖昧なままに人の欲望を抑制して社会に波風が立たないようにするような作用もあったわけです。
 古今東西、若者にとってはこの世間というものが自分の伸びやかな自己実現を妨げるものとして、あるいは欲望の成就を妨げるものとして感じられてきたのです。しかし、世間というものをいったん意識してしまうと、それと正面切って戦うことは出来ません。反抗することが出来るだけです。しかし、反抗している間中、世間を意識してしまうわけですから、これは相当にエネルギーのいることであったでしょう。
 ところが昨今、世間というものを意識すらしていないのじゃないかと思われる若者が出現してきました。自分が良いと思ったことは、誰はばかることなくすぐに実行する。道ばたでキスしたければ、それもよし。ピアスや、茶髪もOKというわけです。かれらは、世間というものではなく、いろいろな媒体を通してつながっている同世代のみを意識しているようです。若者の集まる街での情報や情報誌、パソコン通信、TV、ラジオなどによって、彼らは自分たちだけの準拠枠にアクセスしているのです。
 さて、世間の顔色を伺って行動することをしなくなった若者に対して、周囲の大人も正面切って意見することが少なくなりました。それは、世間というものをバックなされる発言のような重みを持ち得なくなったからです。今、街角の若者の行動に対して意見するとなると、それは彼らにはその個人の意見と受け取られます。「うるさいな。おっさん」と言われてしまえば、あとに続く言葉がありません。「そんなことをしていいと思っているのか」となお食い下がったとしても、「おまえに関係ないやろ」と言われてしまいます。
 さらに、先程述べたように子どもたちは世間という準拠枠ではなく、独自のアクセス方法を持った同年代の集団を準拠枠にしていますから、そこで認められる価値観が子どもたちの多くの価値観を決めてしまうと言う現象が起こります。ある特定のスニーカーが大流行したり、女子高生の間で特定のスナック菓子やキャラクター商品が大流行したりということが起こります。そこでは、内容について個人が吟味するということはありません。と言うより、そこで流行してしまうとそれがカッコいいことに見えてきてしまうのです。そして、流行におくれまいと先を競い合います。
 このような土壌に、エス=覚せい剤などが入ってきたらどうなるでしょうか。

 


第1部 第2部 第3部 第4部

 我々のクリニックは薬物依存専門のクリニックではありません。むしろ、すでに依存症に陥っている人に対してはほとんど何もすることができません。すでに依存症と思われる方は、適当な治療施設を探されることを進めます。依存症は、依存症専門の病院や診療所を受診される方が賢明かと思います。適当なところが思い当たらない場合は、最寄りの保健所、または最寄りの警察に問い合わせてみてください。

presented by o-clinic