薬物依存についての情報  


親と教師のための薬物依存の情報

第1部

なぜ今、薬物依存なのか

アクセシビリティーの増大

アブリの登場

シャブからエスへ


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1.なぜ今、薬物依存なのか

 今までも若者のシンナー乱用は、青年期の精神保健、学校保健の課題の一つでした。今もシンナー乱用は若者の精神保健にとって大きな問題の一つです。しかし、ここで問題にしているのはシンナーに限定したことではありません。むしろ、ここで取り上げるのは最近若者の間で増加傾向(Q&Aを参照)を示しつつある覚醒剤(エス)の乱用、依存についてです。
 日本は、欧米諸国に比較すれば比較的若者の薬物依存が問題にならなかった国だと言っていいと思います。たとえば、アメリカなどでは薬物の問題は最も重要な学校問題の一つでしたし、薬物依存に陥る若者の数も日本と比較すればはるかに大量でした。これまで若者の覚醒剤依存は、日本では例外的な問題と考えて良いと思われてきました。ところが、最近になって少し事情が変わってきたのではないかと思われる兆候が見え隠れするようになってきています。覚醒剤の問題が若者にとって身近な問題になりつつあるのではないかという危惧を抱かせる兆候です。このような変化を受けて、大阪府警や大阪府教育委員会も薬物乱用防止の教育に力を入れています。
 今なぜ若者の薬物依存が問題なのかをまず整理しておくことにします。
 現在の状況を考えるために、さらに今後を予想するために、まず日本の若者の間でこれまで薬物依存があまり問題にならなかったのはなぜか、そしてそれらの事情は現在どのように変わってきているかということを考えてみたいと思います。

2.アクセシビリティーの増大

 これまで日本で薬物依存、特に覚醒剤があまり問題にならなかった原因の一つは、アクセシビリティー(accessibility=近づきやすさ)の低さにあります。
 これまで覚醒剤は、若者にとっては遠い存在だったといえるでしょう。例えば、シンナーなどの有機溶剤は乱用しているという話を身近でも知っているでしょうし、実際使ってみたことがあるという人も少数ではありません。一方覚醒剤はというと、そのほとんどが輸入であり暴力団によって流通しているわけですから、普通の生活を送っている中学・高校生にとって身近に感じるようなものではなかったでしょう。また、日本の警察が優秀であるということもあるのでしょうが、覚醒剤が存在するような文化圏と普通
に日常生活を送っている、いわば堅気(かたぎ)の人が住む文化圏は相互に接点を持っていなかったと言っていいと思います。このこと自体の善し悪しはいったんおくとして、日本の戦後社会は覚醒剤を闇の文化の中に封じ込めて、表の文化と切り離すことで表の文化の安全を確保してきたと言えると思います。学校という表の文化の代表格に所属するものが、闇の文化にアクセスすることは非常に困難になっていたわけです。
 例えば、高校生が覚醒剤に行き着く道程を考えれば、例えば万引きで補導されるとか暴走族に入っているとかのような、普通は教師にも保護者にもわかるようないくつかの反社会的な問題行動があって、有機溶剤の乱用が先行して、そのうち暴力団などとの接点を持つようになってようやく覚醒剤にたどり着くというルートでしょう。これまで覚醒剤を乱用する青少年の特徴は、有機溶剤を乱用する青少年の特徴とオーバーラップしているといわれてきました。子どもたちの感覚も、覚醒剤ということになると「ちょっといくら何でもヤバイんじゃないの」という感じだったでしょう。このようなアクセシビリティーの低さが、覚醒剤というものをイメージとして「非常に遠い存在=得体の知れない恐ろしいもの」とする事ができていたわけです。そこまでいこうと思えば、かなりの覚悟が必要となりますし、その覚悟の裏には陽の当たる文化との決定的な決別があったと思われます。その様な有様を、子どもたちが「行っちゃってる」というように表現することが多いのも、そういう意味を持っていたのでしょう。
 ところが現代の高度情報化社会は、結果として従来の文化の垣根をやすやすと乗り越えられるようにしてしまいました。携帯電話やポケベルの普及、パソコン通信、インターネットは、これまで意図的にあるいは非意図的に分節されてきた文化圏の間をほとんど抵抗なく越えることを可能にしたわけです。
 たとえば、大人の文化圏にのみ許されていたポルノ情報に青少年がアクセスしようと思えば、怪しげな本屋さんでそこのオヤジに見とがめられるという抵抗を越えなければなりませんでした。ところが、インターネットを使えば、こちらの匿名性は確保されたままに何の抵抗も越えずにその様な情報にアクセスすることができてしまいます。昨今予想外の拡がりを見せている援助交際も、従来ならば街角に立って、あるいはポン引きと契約(?)しなければなりませんでした。つまり、自分は売春をしますと宣言しなければなりません。「するかもしれないし、しないかもしれない」ではポン引きだって相手にはしてくれないでしょうから。そこでは、自分はある垣根を乗り越えて闇の世界にはいるという覚悟がやはり必要だったでしょう。もう戻ることはできないかもしれないという覚悟です。ところが、電話やテレクラなどを利用すれば、自分の立場を明確にしないまま、やすやすと垣根を乗り越えることができてしまいます。そして何喰わぬ顔でまたもとの安全な世界に戻ってくることができるわけです。そしてこれらの情報ツールによって得られた匿名性は、人が隠していた欲望や願望を引き出してし まう効果があるようです。観光客としてならば、ちょっと危ない世界を覗いてみたいという願望がそのまま手に入ってしまうわけです。
 子どもたちが垣根を乗り越えることに抵抗がなくなったということは、それに伴う子どもたちの変化をも非常に見えにくくしてしまいました。子どもが覚醒剤を乱用するようになるまで、親や教師が全く気づかないということは普通にはあり得ないことでした。覚醒剤にアクセスするまでに、子どもはいろいろな垣根を乗り越えていますから、その様子の変化は眼に見えて明らかだったわけです。ところが、アクセシビリティーの増大によって、子どもたちは一方では今までの普通の子どもの様子を大人には見せながらでも、もう一方の足を闇の文化の方につっこむということができるわけです。

3.アブリの登場

 
 覚醒剤が身近になったもう一つの大きな理由の一つは、アブリといわれる摂取法の登場です。普通、TVや日本映画で見る覚醒剤というのは注射によって摂取されます。昔の日本映画などでは、湯飲み茶碗の裏で覚醒剤を水道水で溶かすようなシーンがでてきます。このような場面を見ると、覚醒剤というのはいかにも「アブナイ」薬という感じです。注射による薬物の摂取は、吸引や内服などの方法に比べれば作用ははるかに直接的ですから、逆にその様な方法で薬物を摂取することに対する不安も大きいといえます。そもそも自分の腕に自分で注射するということ自体が、慣れなければなかなかできるものではありませんから、どうしても最初は誰かに打ってもらう、あるいは打たれるということになるでしょう。これでは、「シロウト」は容易に近づけません。
 しかし、覚醒剤=注射というイメージに反して覚醒剤の摂取方法は実に多様です。砕いてストローで鼻から吸い込む方法、ジュースなどに混ぜて飲むことも可能です。それから、最近増加傾向にあるアブリという方法です。アブリというのは、アルミ箔などの上に薬をのせてそれをしたから火であぶって、気化した煙を吸い込むという方法です。こうなると、覚醒剤の「空恐ろしい」感じはぐっと少なくなります。注射だったら「死ぬかもしれない」と思ったとしても、煙を吸ったぐらいでは「死ぬほどのことはないだろう」と思うでしょう。それに、この方法だと注射器などを手に入れる必要がないわけですから、薬が手に入りさえすれば、いつでもどこでもお手軽に覚醒剤が楽しめてしまうわけです。
 このような手軽な方法の流行は、入門薬(ゲートウェイ・ドラッグ)と呼ばれるマリファナなどからの移行も非常に容易くしてしまいますし、最終的な薬物であった覚醒剤を入門薬(ゲートウェイ・ドラッグ)に変えてしまう可能性すらあり得ます。
 最初はアブリから入っても、口述するような覚醒剤の耐性からより強力で即効的な作用を求めてゆくゆくは注射でということになる可能性は低いとは言えないでしょう。

4.シャブからエスへ


 呼称の変化も見逃せません。これまでシャブやポンと呼ばれていた覚醒剤は、最近はエスあるいはスピードと呼ばれます。エスというのはスピード(Speed)のかしら文字ですが、この呼び名は覚醒剤が身体のいろいろな働きを文字通りスピードアップするというところから来ています。脈拍も呼吸も速くなり、頭の回転や動作も非常に速くなったように感じるからです。
 シャブという名前の持っているメタファーは、かなり暗いものが多いでしょう。シャブという言葉は、端的に暗くやばそうなイメージを持っているために、自分でそれを使うということになるとそれなりの覚悟が必要になるでしょう。ところが、エスとかスピードという新しい呼称は、なにやらポップなイメージを持っています。例えば、スピードという名前は、大ヒットした映画のタイトルであったり、中学年代の4人組ポップグループの名前と同じなわけですから。
 むしろ、逆に子どもたちにとっては、エスやスピードという名前がプラスの価値を持つ言葉になってしまう可能性があります。「ちょっと進んでる」というようなニュアンスがでてきているということです。たとえば、一時代を画したサイケデリックの流行の際、LSDという薬物の持っていたニュアンスは、覚醒剤とは全く違うものでした。LSDという言葉が持っていたイメージは、決して暗いという感じではなく、むしろ少し進んでいる既成の価値に縛られない自由な感じを持っていました。イメージが重要な選択基準となっている現代の子どもたちにとって、このような名前のもつイメージの変化は重要です。「シャブを打たへんか?」だとちょっと引いてしまう子でも、「スピード決めてみねーか」という誘いには乗ってしまう可能性があります。枚方パークには行かなかった若者が、ひらパーなら行くというようなものです。

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 我々のクリニックは薬物依存専門のクリニックではありません。むしろ、すでに依存症に陥っている人に対してはほとんど何もすることができません。すでに依存症と思われる方は、適当な治療施設を探されることを進めます。依存症は、依存症専門の病院や診療所を受診される方が賢明かと思います。適当なところが思い当たらない場合は、最寄りの保健所、または最寄りの警察に問い合わせてみてください。

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